千石

東京の千石での生活

投稿日:2018年7月14日

自分の学生は東京だった。

都営三田線の千石でおりて

5分ほどのところにある第二松窓寮

が、初めての東京生活だった。

学校は原宿にあり、寮が千石にあった。

歩けば、木の床がメシメシいう、

木造の2階建てで、火事が起きたら

一発で燃えつきてしまうような

建物だった。

入った当初、古戸さんという2年の

人が相部屋で、ずうたいのでかい、

いまいちわけのわからん人で、

帰ってくるのも1週間に2日ほどで

いったい外で何をやっているのか、

皆目、検討がつかなかった。

そのころは携帯はなかったので

入り口の正面に置かれた電話が

鳴ると、そこのマイクをオン

にして「白石君、白石君、電話

です」と呼び出すんですね。

よく呼び出されるヤツというのは

いるもので、まあ、そういう

時代だったのかな。

電話をかけるのも、わざわざ外の

公衆電話に行ってね。

新入生歓迎会とかで、バンバン

飲まされて、どんぶり茶わんに

日本酒をなみなみ入れて、それを

一気したかな。そのあとの記憶は

なかったな。

ある日は、ウィスキー1本を1人で

空けたな。その時は何度もはきそう

になって、実際に苦しくて、便器に

うずくまってはいてたな。

のどに指つっこんでね。

便器に顔つっ込んで。

そういうのを経験して、どれ

くらい飲めばどのようになる

のかとか、暴れるのかとか、

そういうのがわかって、初めの

ころは結構、暴れていて、

朝起きたらアザができていて

覚えていないとか、そういうことが

あって、飲んだらその場で寝る、

というヤツが一番、利口だな

と思ったね。

まあ、今でも、そのころの先輩方の

しつけには納得してないけどね。

なんかねじれてたよね、後輩

へのいためつけが。

2年になって、いっしょの

相部屋になったのは五十嵐

というやつで、こいつもちょっと

ひねくれていて、私の同期の

桜井と同じ学年で、一浪して

入ったんだな。だから、彼に

とっては桜井君だわな。

部屋でもあまり合わなくて

なんか顔を合わせるのも

イヤだなあと思っていた。

高知県に遊びに行くので、

いっしょに行くというので

行ったのは覚えているが、

何かそこでも合わなかったな。

卒業して20年ほどたって、

五十嵐が毎年、タイに来ている

というので、彼が電話してきて

それで会ったけど、懐かしい

なあという感じで、それから毎年

同じ時期にやって来て、会ったな。

でも、たぶん、子どもが中高ぐらい

になって、お金がかかってくる

ようになったのか、彼からの連絡も

なくなったな。それ以来、

5、6年になるかな。

 

食堂の中。右のテーブルの上に置いてあるのは食事会計。ぼくたちは5年生なので、もう1人寮務委員がいたことはわかる。右は吉本幸彦さん。私の右はビッグカメラのふくろ。買ってきたカメラで撮ったホヤホヤの写真。療食の掲示を見ると、寮生約23人くらいで、かなりの数が食べているのがわかる。欠食制度になってから、寮食の量が以前の1.5倍にはなった。

玄関から見た寮。告知欄は、その用をほとんどなしていない。電話のそばに消火器があったのも私は気づかなかった。寮務板のハシに書いてあるのは、わたしの名前である。週番のため。
寮に戻って、そのまま2階に行くか、食堂に寄るか、荒川さんの作ってくれた食事を食べたいとき、テレビを少し見たいときは立ち寄る。疲れているときは、そのまま2階へ行く。

 

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