東京には11年ほどいて、
タイには27年ほどいますが、
東京にいた時はどこに住んで
たのかというと、初めは文京区白山
に住んでいて、都営三田線の千石駅
のすぐ近くで、早朝、外に出ると
学校に通う京華女子がいっぱいいて、
びっくりしました。そのあたりを
Google 地図で見ても、学校は
あるのですが、そのほかはもう
跡形もなく、なくなっていたり
するのでさびしいですね。
何とかそばの甲州屋は残っていて、
ここが唯一の場所ですね。
この前を通って東洋大を通り過ぎて、
白山上の方まで行くと、昔、
バイトをした喫茶レストランが
ありましたが、建物自体はそのまま
ですが、テナントは変わっていますね。
パチンコ屋の2階でしたかね。
好き勝手やっていて、休日に1人で
まかされていて、突如、店のオーナー
がやって来て、「何やってんだ!」
とどなられて、こっちも今までのうっ
ぷんを爆発させて、けんかですね。
辞めさせられましたね。そのときは
ぞうりばきで店にいて、大画面の
スクリーンでビデオを見ていたり
していましたね。
そのあと、5年ほど住んでいたのが、
根津でしたが、ここは交差点の
赤札堂が象徴的ですが、その向かい
の吉野家は少し通りに入ったところ
に移動していますね。
そして私が住んでいた木造オンボロ
アパートはまだあるのかな、とたどっ
ていくと、「その通りに入れない」。
細すぎるんですね。 Google で対応
していないので、外からしか見れま
せん。入り口の右手には、魚屋が
あって、そこをチャリンコで入って
いくんですね。確か「さがみ荘」と
いったと思います。当時、もう
30-40年くらいの建物だったので、
取り壊されていると思いますが、
結構、まわりでも、あーあの、
アパートに住んでるの!という感じ
でしたね。
やっちゃばで夜中、働いていた時期
とか、早朝働いていた時期もあり、
チャリンコで20分くらいで行けま
すね。だからここを選んだというの
があります。そのあとは、霞ヶ関で
1年くらい降りていて、朝、千代田線
の根津から乗るのが苦痛でしたね。
ラッシュアワーで根津で乗り降り
する人はほとんどいないので、
押し込まれるんですね。タイの
ように乗らないで残る人なんて
いません。ぎゅーぎゅーの車内に
いて、この生活から逃れたい、
という気持ちは強かったですね。
そのあと、仕事を変え新宿西口勤務
だったですが、千代田線から丸ノ内線
に乗り換えて行っていましたが、
たまに鶯谷から新宿の定期に変えた
りして気分転換していましたが、
根津から鶯谷に歩くのは結構、
大変でしたね。
それでオンボロアパートに帰ると、
ベッドがあるだけでそのまわりは
本や新聞の海で、さむいイメージ
しかないですね。冬のさむい時期
ですね。トイレもさむくてそこに
暗室をつくっていて、というか、
自動身分証明写真室のような
スペースでしたけどね。ベッドの
毛布の中が唯一、あたたかいもの
でした。
フロは近くの銭湯に行きましたが、
まだ宮の湯がありましたね!
午後4時ごろの早い時間に行くと、
イレズミの人とかがいましたね。
その近くに総菜屋さんや定食屋さん、
定食かめややめし和幸などもまだある
ようで、何となく位置が以前と
違うような気がしますが、
このあたりの土地を持ってる人の
親族のような気がしますね。
当時、まだできたばかりで、
あんちゃんが作っていた定食は、
きっと食べてみると思い出すと
思いますが、このあたりに行った
際はぜひ、立ち寄りたいですね。
そして、そうそう、この角の洋食ライフ
というのは、今はもう閉まっている
ようですが、あやしいお化け屋敷
のような店だったと思います。
おばさんとおじさんがいて、
30年くらい前でしたが、何の
洋食だったか、覚えていませんが、
オーダーして食べていましたね。
ものめずらしそうに見られて、
「この辺の住人?」という感じで
見ていたんでしょうね、夜遅い
時間に何度か入った記憶があり
ますが、もしまだ2人とも生き
ているなら、80越えでしょうね。
そういえば、定食かめやなども、
店が出来た当初、よく行っていた
と思うんですが、何となく「あの
おんぼろアパートに住んでいる人」
というような視線を感じるように
なって、別に後ろめたいことは
何もないんだけど、徐々にこの
あたりで食事して帰ることが
なくなりましたね。
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閉店してしまった巣鴨~千石あたりの店
学生のころは、文京区の千石に 住んでいて、いつもJR巣鴨駅で おりて、歩いて千石に帰っていた。 その途中で、ごはんを食べることも 多く、そういった店はまだやって いるのかなあと、ネットで見て みると、 …