年を取ってくると、むか~しのことを
思い出します。特に印象に残っている
のは「イメージ」「場面」ですね。
1963年生まれですが、大学に行く
のに東京に出てきて、その学校が
原宿にあって、いろいろ歩いて開拓しま
したね。1年からアルバイトをして、原宿
でもやりましたね。
ある時、交差点のロッテリアから渋谷方面
に行ったところにウィーンボンボンという店
があって、カウンターだけの店で、
そこで食事を何度かしました。
1人で食べ歩きする人だったので、
外から見てカウンターにだれもいな
いとき、その店に入って、マスターの
おじさんと話をして、ゴハンも食べま
した。自分だけの店を開拓するってい
うんですかね。料理もおいしくて、
バクダン何とかというのをいつもたの
んで、牛肉が巻いてあって、中は玉子。
それがドミグラスのスープに入ってい
て、小さな1人用の取っ手がついた
小フライパンで出てきて、ごはんは
別途。650円ぐらいで、学生で予算が
限定されていたので、それぐらいの
値段のものが精いっぱいですね。
そうすると、もう1つ、シチューを付け
てくれたりね。それもウマイの。
いい店だったので、友だちを連れて
来たんだけど、気に入らない人もいま
したね。ゴキブリがテーブルにいる
ぞ!って。
だから、いつも1人で通っていて
ある日「土曜日にアルバイトして
くれない?」と言われ、土曜日のみ、
アルバイトをしました。普段の日は
青山学院の学生がやっているようで、
私は土曜日のみ。1日5000円で昼夜
メシ付き。カウンターで6、7人が座れる
店で、デンとおやじさんがカウンター内で
座っていればいいんだけど、何かと素材
や調味料が必要になって裏から外に
買いに行くので、その際に店番がほしい
んでしょう。
1年のときは、池袋の南口の西武横
にある森永ラブでバイトをやっていて、
フィッシュバーガーに入れるタルタル
ソースに感動していたんですが、この
ウィーンボンボンのレシピにもいろいろ
感動しましたね。
牛肉のサラダ1000円。牛肉を蒸して、
さっと野菜にからめ、カウンターに置い
てある特製ドレッシングをかけて食べ
ます。これがウマイ!ドレッシングは
実は、市販のものだったんですが、
当時は和風のやつは、まだ一般的
ではなくて、それを牛肉にかけて
食べるという・・・何となく客はだまされ
るんですね。小さなカウンターの
雰囲気とか。いきなりカウンター越しから
出てくる料理とかに。簡単な料理だったん
だけど、メインの牛肉のサラダは、
すでに出来上がったお皿のまま冷蔵庫
にいくつか入れていて、オーダーが入る
とそれを出してきてドンと出す。あっと
いう間に出てくるんだから、客は驚くよね。
そのあと、火にかけた小フライパンの
バクダンもついていたかな。それに
ゴハン。サービス旺盛なのか、そういう
メニューなのか、客はよくわからなかった
と思うね。安岡力也の弟子とかもよく来て
ましたね、場所柄。当時はやっていた
横文字系の職業の人が多かったな。
近くで働いている人。
この店で感動した料理はいろいろ
あったと思うんだけど、はっきりとは
思い出せないんだけど、昼前に出勤して、
おじさんが肉屋の卸から仕入れた豚肉
をスライスするんですね。それをパン粉
につけてさっと揚げる。それをしょうゆを
垂らして、まかないで食べるんですね。
薄いんだけど、ゴハンと食べると不思議に
ウマイ。簡単につくっているんだけど、ウマイ。
バクダンも、玉子を覆うようにひき肉等をか
ぶせ、それを牛肉で巻くんです。つくるのは
簡単でしたね。
土曜日にバイトしてるから、来てよ!と
友だちに言っていて、来てくれたんだけど、
「あのシチュー、固形のクリームシチュー
でしょ?」といわれ、そうなんだよね、
固形も使っていたけど、すべてじゃない
んですよ。うまく自己流にまぜてね。
何を使おうと、おいしいものはおいしい。
そういうワザを持っていた人でした。
夜の10時ごろ、人も来なくなって、
きょうはいいよって、5000円もらって、
店を出て、原宿駅の方に向かい、電車
に乗って巣鴨まで行き、そこから歩いて
白山まで行く途中の、モスバーガーに
よって、ハンバーガーをオーダーして
ずっと待っているのが常でしたね。
ある日は、マスターが機嫌がよくて?
店が終わると、サウナとかに連れて
いってもらいましたよ。あと、新宿の
うどん屋とか、天ぷら屋さんとか。
どれも名店のようで、雰囲気がちょっと
違うというか。今思い出しても、詳しく
どこか思い出せないんだけど、
新宿3丁目とか、2丁目とか。でも、
うどん食べても汁が黒くって、なんや、
関西のうどんの方がずっとうまいやん、
と思いましたね。大使館のコックを
やっていたというので、有名店をよく
知っていて、そこのオーナーとも
顔見知りで。サウナのときは、この人
ゲイかな、危ないかも、と思いました
けど、何もなかったですね。
ある日、客で行った日は、5人
くらいで行ってそのうち女性は2人。
その1人の誕生日だったんです
が、店内を暗くして、それぞれの
ワイングラスに、フワッと青い火
がともって、ウワッて、とっても
感動的で、こういうワザがうまい
なって思いましたね。幻想的な
感じを演出してくれて、その時の
イメージが何となく残っていますね。
簡単にそういうことをやってくれる
人で、いろいろ経験してきて、
余生をゆっくり、マスターとして
過ごしている、という感じでしたね。
身内もいないようで、私のイメージ
としては1人でアパートに住んでいる
感じでしたね。というか、着替えに
帰ったりしていたので、近くでアパート
住まいというのはわかりましたね。
あの屈託のない笑顔はなかなか
忘れられないです。
私がバイトをしていたのは、19の
ころだから、35年前ですか。ふっと
思い出して、ウィーンボンボンで検索
すると、いろいろ出てきたので、
懐かしくなって、自分でも書いてみま
した。
京都出身で、今はタイで、東京には
もう10年近く前から行っていないけど、
原宿をまた歩きたいですね。
ウィーンボンボンがあったところも。
何もなくなっているとは思うんだけど、
その場所に立てば、あの時のあの店が
あった場所だよね、と自分1人で懐かし
めるのは、記憶の確認ですね。
なんで確認しなくちゃいけないの?
いや、それが私のたどってきた人生なんですよ。
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私も63年生まれで19の時に東京に住む兄のもとへ遊びに行った時連れて行ってもらいました
面白い店があるんだよって、マスターが面白いって。
ばくだん三銃士食べました。
美味しかったなぁ
サラダも食べて、その味は覚えてないけど、麦茶を入れる瓶容器に入ったなんかいろんな切れ端の詰まったドレッシングはよく覚えてる。
音楽をやってた兄達のお気に入りの店だったみたいで、兄が仲間と住んでた古いアパートの雰囲気やあの店の雰囲気や、北海道の田舎娘の目にはすごく羨ましい東京暮らしに見えました。
ずっともう一度行きたいと思い続けてたお店です。
懐かしい思い出が蘇りました。ありがとうございます。
最近、自分が作っているタイ自由ランドっていうフリーペーパーに、昔作って食べたババロアを書きました。大学のとき、週1でアルバイトをしていたとき、なぜかシェフのおやじさんがババロアの作り方を教えてくれたんです、ちゃんと、レシピをノートに書いたんだけどもう40年前のことだから、なくなってるなあ、甘さ抑えたその味が何となく画期的で、それを今回、タイ人が作ってくれたときに思い出したんですよ、まあ、そのタイ人のは杏仁豆腐にも近いかな、とは思うんだけど、昔食べてあのレシピの作り方を知っている人がいたら教えてほしいなあ
いっそ…
ここに集った方々で、マスターのシチュー本を手本にして、クッキング大会とかやったなら楽しいだろうなぁ…
どっかの料理教室を貸切って。
どなたかやってくれないかなぁ
1983年のこのころ、マスターにたのまれて土曜日のみアルバイトをしていました、昼12時から夜客がひけるまで、5,500円でした。昼の食事をするのが新鮮で、豚肉を薄く切ってとんかつのように揚げて、しょうゆ(たぶん)で食べるんですね、マスターが作るとひと味違う、まるで魔法のようでした、いろんな味を経験した時期でしたね
懐かしいなぁ…
ちょうどその頃、1983年くらいかなぁ。
大学出て新卒で、神宮前3丁目のデザイン事務所に勤めていて。小さな事務所だったから一緒にランチする仲間もおらず、かなりの頻度で通ってたっけ。
ご主人の他に、学生さんくらいのアルバイトらしき男の子が一人、いつも居て。
狭いのに、ご主人いわく「潰れたマージャン屋から貰った」椅子が並ぶ店内。メニューを決める間もなく、「ばくだん三勇士」
を勧めるままに頂いてました。
社会人1年生を過ごした原宿は、今でも心の中でキラキラと輝いています(^^)
原宿時代のあとにそんなことがあっとのですね、いまの私の人生にダブって見えるので、少し悲しいです。
僕は漫画家いしかわじゅんさんの漫画で知ったのかな?いつも爆弾三勇士食べてましたが、デザートで一度「ビールのシャーベット」が出てきてビックリしました。缶ビールの一番小さい缶(135ミリ?)をそのまま容器に使っていたのですが、それが思いのほか美味しかったのです。お茶の水のお店にも2回か3回伺いました。原宿を閉めるときには、吉祥寺?だかに物件が…という話を聞いていたので、なんでまたこんなところに?と思ったものです。川沿いでね。
そして最後に伺ったときは「今日でもう店を閉めるんだ」というのでびっくり。あの温厚なシェフが人が変わったように荒れてて「もうこんなところではできない」と。あまりに客層が違い過ぎて、やってられないみたいなことを。これからのことを聞いても、もう田舎に帰るというばかりだったような。あのシェフがなんでここまで、という驚きの方が大きかった。
ちなみにシェフの「ソースの本」古本屋で手に入れましたが、かなり高価でしたよ。
サマンサ さんの「バブルで大家さんに追い出され、お茶の水に移転したけどすぐに店を閉めたような?その後、自分の地元の旦過市場で再開した時は驚きました。新日鉄のやっている老人用マンションに入居してると言ってたけど・・・。」
旦過市場で再開 というのは始めて知りました、私も1963年生まれですが、もう一度ぐらい、あのあたりを歩いて,天を見上げて思い起こしてみたいと思います。ありがとうございます
先日、渋谷から原宿まで明治通りを歩きました。ピンクドラゴンはまだあるけど、ウイーンボンボンの入っていた家はもうありません。自分は1965年生まれで少し遅れてお店に通っていたのかな?マスターが銭湯に行くときに店番を頼まれたり、パーティーの時や繁忙期にバイトを頼まれました。「スープの本」を今引張でしてみています。写真のマスターの若いこと(笑)
バブルで大家さんに追い出され、お茶の水に移転したけどすぐに店を閉めたような?
その後、自分の地元の旦過市場で再開した時は驚きました。新日鉄のやっている老人用マンションに入居してると言ってたけど・・・。
懐かしいなぁ、「バクダン三銃士」の他に「ハイル・ヒットラーのドイツ式焼肉」とか「松坂慶子はステキだなぁのステーキディナー」とか面白いネーミングの並ぶメニューの中に何故か普通に「さつま揚げ定食」とかありましたね、安くて美味しくて、雑誌の紹介記事に「オーストリアやドイツ領事館のコック長から独立して店を構えた、開店以来20年間赤字無し」って書いてありましたよ。